君は私を暴いてしまう
それでも私は君が好きだ
たとえ見ていて、くれなくても
その痛みがびりびりと私を引き裂いていく
014:薄紅色の想いは残酷にも刃へと変貌を遂げ、君の元へ
エリオットは足早に部屋をめぐった。ブレイクが来ていると小間使いたちが騒いでいるのを聞いた。特殊な機関の要員であり、戦闘術も優れている。幼いころに強いらしいと言うまた聞きで勝負を挑んでぶちのめされたことはまだ記憶に新しい。その敗北の記憶は敗北による打ちひしがれよりも、強い男の出現という楽観で記憶されている。勧善懲悪や切った張ったの剣戟を好む性質であるから、強いということは重要項目だ。エリオットが長じてから頼れる兄達が相次いで亡くなったことも影響しているかもしれない。ギルバートはエリオットの兄である前にナイトレイの家柄から逃げたし、ヴィンセントにいたってはエリオットの存在など眼中にない。
薄紫のように淡く色づいた白銀の髪を見つけるのは容易だ。誰かと談笑しながら通路の角を曲がる背中を見つけた。建物の見取り図を頭で広げながら、あそこは袋小路のはずだがといぶかった。逃げ隠れするいわれはないから足音も高く歩み寄る。そもそも袋小路であっては相手に逃げる道などない。
「ザークシーズ=ブレイク!」
声高に名を呼びつける癖がエリオットは抜けない。家柄として地位もあり、どちらかと言えば高位に属するからどうしても高腰に言いつける。直した方がいい旨は承知してるのだがどうも生まれついての姿勢はなかなか修正できない。二人の男が振り返る。二人が振り返ったように見えたのはその二人が連動しているからだ。エリオットの目の前でブレイクは、義兄であるギルバートを抱擁していた。
呆気に取られて何も言えないエリオットがその場へ棒立ちになる。何か言わねばならないし、ブレイクはエリオットにとって少なくとも憧れ以上の人物だ、交わしたい言葉なんかたくさんあって、なのにエリオットは茫然と立っていることしか出来なかった。ブレイクの方が見とがめられたことさえ気にしていないようでともすればギルバートの方へ体を直しがちだ。向けられる肩や背中が世間知らずのガキは黙っていろと言っている。
「ブレイク、離せッ! ――エリオット、これ、は何でも…!」
ギルバートの方が緩く巻いた黒髪を揺らして慌ただしく言い訳した。ブレイクを引き剥がそうとする腕はそれでもどこか甘く本気ではないようだ。ブレイクは抱擁する腕を弛めないしギルバートの腰さえ抱いて見せた。紅い隻眼がエリオットに挑むように眇められた。その口元はいつも弛んでいるがますます笑みを深めている。
「ちょうどいい機会ですヨ。オトウト君にも交際を認めていただきまショウ」
「ばッ何をッ!」
ブレイクの拘束はきつくギルバートの自由を赦さない。それでいて添えられた手がギルバートの頤をしっかりとらえて唇さえ寄せようとする。スカーフを解いて絡める指先が卑猥だ。ブレイクの強さは遺憾なく発揮されてギルバートの抵抗を赦さない。
エリオットの眉がピクリと跳ねた。ブレイクがどれほど強かろうとギルバートだって同じ組織の一員だ。ましてや曰くの多い家柄の出身であれば何もしないとは考えにくい。ギルバートはブレイクを本気で退けるつもりはなさそうだ。エリオットの眉がきりきり吊りあがる。ギルバートがブレイクの暴挙を半ば受け入れているかもしれないと思うだけで体が灼けた。ちりちりと意識の岸壁を焔が灼いて冷静な判断ができなくなる。静観という言葉はエリオットの中からみるみる消えて、灼きつくような痛みと怒りに握りしめた手が震えた。音を立てそうな勢いでエリオットの指が二人を指した。ぷるぷる震えるのをブレイクは何の感慨さえないように見返す。
「破廉恥だ!」
「フム、どうやら弟君も色事には頭がカタいようですネェ」
「お前がおかしいんだッ! 放せッわっ尻を触るなッ」
つつつぅとブレイクの指先が優美にギルバートの尻を撫でる。
「公衆の面前でッ! 恥を知れぇッ!」
ギルバートだけがひたすら恐縮している。ブレイクは小首を傾げるようにエリオットを見ていたがその口の端を不意につり上げた。にぃと口元が裂けるように紅く開く。含みのあるようなそれにエリオットが怯んだ。その癇性的な笑みはなんだかヴィンセントを思い出させて砂を噛んだように不快だった。
「キミは誰に妬いているんだい?」
ギルバートまでもがきょとんとした。エリオットも投げつけられた言葉の真意を測りかねて唖然とした。
「ブレイク、それはどういう意味だ…」
「――オレは! 貴様らの行いが不愉快だと」
「だカラ、誰が何をするから不愉快なンだい。ギルバートくんが破廉恥な行いをすることカイ。それともワタシ? 君はどちらと破廉恥なことをしタイんだい」
エリオットの体中から熱が引いた。反応しきれないエリオットをかばうようにギルバートが割って入る。
「ブレイク、変な言いがかりはよせッ! だいたい、エリオットが、…お前はともかく、俺なんかを気にするわけが」
ギルバートは慢性的に自信不足だ。自己を低く見積もる。常ならば鬱陶しいだけのそれにエリオットは初めて怒りがわいた。ブレイクはそれさえ承知だと言わんばかりに口元を弛めている。ギルバートだけが場違いな主張を繰り返した。ギルバートの仕草がエリオットに早く立ち去れと言っている。厄介を引きうけようとする意志が見て取れて、なおさらエリオットから動く気は失せて行く。
不機嫌そうに引き結んだ口元をさらに引き締めてエリオットがギルバートを睨みつけた。
「この馬鹿者がァッ」
「は?! まだいたのかッ、いいから、行けって」
「それが馬鹿だと言うんだ馬鹿者がッ! オレはお前の助けなど要らんッ」
納得するしない以前に意味の判っていないギルバートが小首を傾げる様子にエリオットの苛立ちが募る。この気の弱い義兄は気が弱いなりに逃げればいいのを逃げずにしょい込もうとする。世渡りが下手で、悪意さえ受け入れてしまうこの兄が、オレは。愛情と憧憬は別物であるとエリオットは強く悟った。ブレイクに対する憧れはあるしギルバートに憧れはない。それでも守ってやりたいと思うのはこのギルバートなのだ。殴り返すことさえ知らないように平手も拳も何でも受け入れてしまって後で傷を舐めているこの兄が、情けないと思うのに守ってやりたいし自分を見てほしい。守ってやりたい見てほしい。それでもこのギルバートが見据えているのはエリオットではない。
エリオットはギルバートがエリオットを見るたびに切なく笑うのを知っている。くわしい理由は問うていない。それでもその潤んだように揺らぐ眼差しが誰かと二重写しの幻影を見ていることくらいわかる。きっと年の頃や性別がエリオットと同じなのだろう。見ているから判る。エリオットはギルバートを詳細に見つめることを怠ったことはないし継続するつもりだ。だから、判る。見ているから判る、ギルバートがエリオットを見ていないことくらい。
「…――ッ!」
ほとばしらせる方法さえ判らないまま浮き彫りにされた傷を抱えてエリオットは踵を返した。背後で少し揉める気配がした。それでも歩く速度は緩めない。ギルバートが追ってきてくれたら嬉しい。そのくらいにはまだ自分には稚気がある。びりびりと四肢が震えた。体中が痛くて熱くて煮立った頭はまともな思考さえ成り立たない。
「エリオット!」
少し低くて潤んだ声にエリオットははじかれたように振り向いた。額に少し汗をにじませたギルバートが駆けてきた勢いのままに肩を揺らして立っていた。蜂蜜のように甘くとろけそうな目だ。黒い髪と金色の瞳と。その顔立ちも唇も幼いように澄んだ頬も、エリオットが目線を外したくなる要素はない。無垢に笑んで眇められた金色が悲痛に潤むのは見たくないし、その柳眉が寄せられるのも解消してやりたい。何でもしてやりたいのにエリオットの力で何かできることなんて何もない。今だってほら、こうしてギルバートを心配させている。
「ブレイクのことは、気にするな、すまない。悪い奴じゃないんだ」
ただ人をからかうような態度を取ることが多いだけなんだ、とギルバートが苦笑する。エリオットの口の端が震えた。怒りのように熱く悲しみのように痛く思慕の情のように切なかった。
「エリオット、大丈夫か? その…気分を害したら、すまない。俺も気をつけるように、するから」
「…ぅしてだ。どうしてお前はッ」
ほとばしりだした流れは収まらなかった。いつも後で後悔するのに言わずに堪えることなんて出来なかった。
「アーネストたちのこともそうだった、『悪い奴じゃない』! そうやってすべてしょい込んだような、顔をして! お前だけが辛いような顔をしてッ!」
あぁ違うこんなことが言いたいんじゃないんだ、ただオレは。ギルバートは口をつぐんだが言いかえしもせずにエリオットの叫びを聞いている。言い訳するように宙を泳いでいたギルバートの手が下がった。制服である手袋をはめた指先の細さが目に付いた。睥睨するエリオットにギルバートは不服げな顔もしない。エリオットが睨むのはそうしなければすぐにでも落涙して喚いてしまいそうだからだ。ギルバートを傷つけたくなんかないのにオレはいつもギルバートを傷つけてばかりいる。不用意で浅慮な言動をギルバートは責めもしない。
「ザークシーズ=ブレイクは関係ない! それはお前の、言い訳だッ」
ギルバートだって大人であるからエリオットの理解の範疇を超える付き合いくらいあるだろう。エリオットの考え方はわりと偏っていると指摘されがちであるから心得ているつもりなのに。ギルバートは黙って不条理な痛みを受け入れている。それが、辛い。ギルバートが好きなだけで、見てほしいだけで、それなのにオレは何をしているんだろう。
「そんなものはッ、そんなものは、自己満足だッ! お前は、何も見てなんかいないッ」
オレはもう辛くて悲しくて、ギルバートにただ見てほしいだけなのにお前はオレなんか見たりしないんだ。
ギルバートの金色の双眸がオレを映してくれたらいいのに。
オレに重ねてみる誰かなんかじゃなくて、オレを見てくれたらいいのに。
荒い呼気に肩を震わせてうつむけていた位置から睨みあげるとギルバートがふわりと笑んだ。困ったような辛いような、それでも慈しむような。オレじゃない誰かを見てる。
「ごめんな」
あぁなんて、なんてきれいな顔。
エリオットは自分が天に向かって唾を吐いていることくらい判っている。ギルバートを傷つける痛みこそがエリオットを切り刻んだ。吐きだす息に喉が渇いた。吸いこむ息に皮膚が引き攣れた。それでも歯を食いしばってギルバートを睨みつける。すがりつかないのはただの浅ましいプライドだ。ギルバートはそれさえ知っているかのように責めもしない。乞いもしない。
「ブレイクとのことは、見なかったことにしてくれ。…――忘れて」
踵を返すギルバートの背に爪を立ててやりたい。襟を掴んで引き戻したい。
抱き寄せたい…――抱きしめて、欲しい
ギルバートの熱を感じたい、体が欲しい。したいことばかりでエリオットはもうどうしたらいいか判らない。
戦慄く唇から震える目元から目を反らしたくて、エリオットが膝を抱えた。伏せる顔面が熱い。くしゃりと指を入れてかきむしる指先さえ認識外だ。髪が乱れることはおろか顔を歪めて泣いていることに気付いている。
情けない。格好悪い。子供っぽい。
「…――ぅ、あ、あぁ…」
詰まる喉に喘ぎながらエリオットはギルバートのそばには常にブレイクがいることに気付いた。
ギルバートは引き返してこなかった。
《了》